|| 詳報 ||  石塚正英/著 『地域文化の沃土 頸城野往還』

フェティシズム研究者として頸城野(新潟県上越市)を愛する著者は「人の地産地消」をめざしてNPO 法人・頸城野郷土資料室を立ち上げている。本書は古代朝鮮と「裏日本」頸城野との生活文化的つながりを立証する最新論文集と、地方をもりあげるスパイスとして学術がいかに有効かを伝えるエッセイを収める。世界的にも稀な神仏虐待の習俗を今も残す頸く びきの城野(新潟・上越市)に一番近い本。


石塚正英/著
『地域文化の沃土 頸城野往還』

は し が き


北陸から北方の日本海沿岸一帯を、古くは高志ないし古志と称していた。『日本書紀』天智七年(六六八年)の箇所に、その一帯から「燃える土」と「燃える水」が近江大津宮に献上されたという記録がある。「三十八代天智天皇の七年 越の国より朝廷に燃土燃水を献上せり」。

その地には、早くから民間ルートを通じて東アジア大陸の諸文化が伝えられていた。例えば道教ないしそれに起因する民間信仰は、飛鳥の欽明天皇時代における仏教公伝(五三八年、ないし五五二年)よりもずっと早くから高志の一帯に浸透している。また、飛鳥時代には、高志のことを「蝦夷」とも称していたが、当時「蝦夷」とは倭=朝廷に服従しない蛮族の意味があった。実情がわからないので脅威と畏怖の対象だったのだ。何を信仰しているのか、覚束なかったのだろう。

古代の日本は、国際的には、政治経済、そして生活文化のすべてにおいて日本海側が玄関だった。また、仏教世界でも、浄土は日本海の西にあったから、浄土に還る夕陽、すなわち没する太陽こそ偉大な神だった。能登あたりの海岸では、神社の鳥居は海に向かって建てられた。神は海の向こうから受け入れ、信徒もまた海の向こうからやってくるのだった。太陽の没する地は聖域に属していた。よって、「日出る処の天子 書を日没する処の天子に致す」は当時の日本(飛鳥王朝)が中国(隋王朝)に対して最大級の敬意を表していた傍証と考えられる。なお、親鸞は越後に流罪となって生活した時、居多の浜(現上越市)で日の丸を描いた。それは居多神社に現存するが、その日の丸は夕陽であったと推定できる。

さて、古代における日本と近隣諸地域との交流は、まずは民間の生活文化的な動機から開始して、その後国家間の政治経済的な動機が重きをなすに至った。その際、前者の交流は日本海沿岸の汀線航路(なぎさを結ぶ沿岸航路)を用いて行われ、後者の交流は飛鳥・奈良の国家的プロジェクトによる道路交通網を用いて行われた。その際、七〇一年大宝律令の後に整備され始めた五畿七道の一つ、畿内から東北方面を結ぶ東山道が重要となってくるものの、この二種の交通路のうち前者を軸に据えて古代の日韓交流を考察するのが、本書編集の第一の目的である。

ところで、古志・高志の域内にあって、現在の上越地方のことを、古代においては頸城、久比岐と称した。「くびき」と読む。現在でも、上越地方を頸城野と称している。その「くびき」の意味は、要衝の地としての「頸」と境目としての「城・岐」の合成とも理解できる。あるいは、『日本書紀』欽明天皇二三年七月の条に「韓国の城の上に立ちて(柯羅倶爾能 基能陪儞陀致底)」とあり、これは「城」という語が独立して用いられた最も古い例なので、「城」は朝鮮半島に関係しているのかもしれない。

上越市三和区の「三和」という名称は、美守・里五十公野・上杉の旧三ケ村を合わせたところに由来する。その旧村名のうち、美守は、古代には夷守と記した。九三四年(承平四年)頃成立の和名抄には、すでに「夷守」と称する郷に関する記述が存在している。その際、「夷」とは、「鄙」とも書き、都から遠い「ひなびた」ところ、辺境という意味である。したがって「夷守」とは、一見すると辺境を守る(人)の意味になる。具体的には蝦夷の攻撃から大和朝廷が国土を守るという意味、あるいはそこから転じて国府・国司の別名になるようである。

しかし、平野団三「古代頸城文化の内証」によれば、「夷守」とは蝦夷の里を意味する。頸城地方に大和朝廷の勢力が及んでもなおしばらく蝦夷は自民族の根拠地を確保しており、それを大和朝廷側は「夷守」とか「五十公」とか称した。なお「五十公」は当初「夷君」と記したが、やがて時が経つにつれ「夷」が嫌われて「五君」「五十君」「五十公」などと改称された。また「守」は「かみ」とも読むので、「夷守」は「ひなのかみ」と読んで「夷君」ともども大和朝廷側が蝦夷の首長を遇するのに用いたと考えられる。とにかく、古代の頸城地方には大和朝廷に打ち負かされない文化をもった先住民がいたことになる。その先住民の一部に渡来人がいて、不自然なことはない。

ところで、二〇一七(平成二九)年秋、群馬県の古代碑文「上野三碑」がユネスコの世界記憶遺産に選ばれた。これは古代日韓交流史に深くかかわる碑文である。七世紀から八世紀にかけてこれらの碑文を建立した人々は朝鮮半島系渡来人の子孫と考証されている。この三碑建立に関係した人々は、まえもって半島から上野の地に移住していた集団の末裔である。当初の住民は、飛鳥や奈良の中央政府の政策で移住してきたわけではない。彼らは、まえもって何らかの動機に裏付けられつつ、半島から北陸にまで航海した。二〇一七年に頻発した北朝鮮から北陸・東北沿岸への木造漁船漂着が傍証となろう。ダイレクトに、あるいは汀線航路を伝わって越後沿岸にたどり着き、現在の新潟市を河口とする信濃川・千曲川や、現在の上越市を河口とする関川から信濃や上野の奥地へと南下した。あるいは現在の三国峠(上・越県境)や関田峠、富倉峠(いずれも信・越県境)をたどって同じようなコースを移動した。そのような可能性を想定できる。上野三碑を建立した人々は東山道を通じて畿内と連携していたとして、これらを建立した人々の祖先は越後沿岸から幾山河を経て上野の地に住み着いた渡来人集団だった。そのような可能性を想定できる。

上野三碑はたしかに東山道(八世紀初頭以来の政治経済の道)を介した飛鳥・奈良王朝の内治外交政策に関係はするが、私が注目するのは、五世紀・六世紀には推定できる半島→越後→信濃川水系・関川水系・峠越え→群馬という生活文化の道である。上野三碑は国家・政治的に意味がある前に、これを建立した人々が切り開いた民間移住の軌跡として重要なのだ。政治支配に彩られる日韓関係でなく、文化伝播の相互交流で意味をもつ上野三碑に注目するのである。

そのような歴史的・文化的背景を有する頸城野の今昔について縷々説明を施すことが、本書編集の第二の目的である。その際、本書第7章「小川未明の愛郷心」において初めて使用する術語「愛郷心(patriophil)」は一つのキーとなる。この語は、概念・術語とも私のオリジナルである。「パトリオフィル」の「パトリ」は郷土を、「フィル」は愛を意味する。二語を合わせて「郷土愛・愛郷心」となる。それは、中央の政治国家にでなく地域の生活文化にかかわる。

最後に、本書に含まれる諸研究のためのデスクとフィールドを提供してくれたNPO法人頸城野郷土資料室の創立一〇周年を記念することが、本書編集の第三の目的である。以上の解説でもって、本論へのいざないとする。

石塚正英

四六判ソフトカバー 299頁 定価=本体2300円+税
ISBN978-4-7845-1741-1

目 次

はしがき ※上記掲載

(ハングル)信濃・上野古代朝鮮文化の信濃川水系遡上という可能性

Ⅰ 頸城野からみた古代日韓比較文化誌

第1章 古代交通路からうかがえる頸城文化の形成

一、釜蓋・吹上(上越市南部の弥生)遺跡から推論できること
二、『頸城文化』所載論考から浮かび上がる古代交通路
三、頸城と神済
四、信濃・上野は頸城のヒンターランド
五、『頸城文化』掲載の関係記事

第2章 信濃・上野古代朝鮮文化の信濃川水系遡上という可能性

はじめに 北陸沿岸の再評価
一、韓半島南部の前方後円墳と千曲川流域の積石塚
二、巴形銅器と翡翠
むすび

第3章 伝播する文化の諸問題─朝鮮半島と日本列島の菩薩半跏思惟像

はじめに 問題の所在
一、七世紀の半島人と列島人
二、近代からの逆読み
三、「文化財」の成立
むすび アルカイック・スマイル

第4章 岡倉天心「アジアは一なり」のパトリ的な意味

はじめに
一、文化に軸足をおく天心
二、日清・日露戦争の評価
三、パトリオット天心
むすびに

Ⅱ 頸城野学へのいざない

第5章 野尻湖ナウマンゾウ発掘からすべてが始まる

地域の経済や文化を保存し発展させるためには、中央でなく地域に立ってそこから全国・全世界を眺め見極めるという大望をいだく郷土社会を育てる必要があります。地域文化の普及は、地域文化を担う人間関係の創出を伴うでしょう。基点である地域が豊かになれば、きっと結節点である中央も豊かになることでしょう。私は思います。くびき野で学び、くびき野を学ぶことにより、郷土における就労や生活において〈明日からの目的意識が明確になる〉、そのような郷土人育成を目指そう、と。くびき野で生まれた産物をくびき野で流通させ消費する〈地産地消〉の、いわば人間バージョンといえましょう。地域で育成し教養をつんだ人びとが地域で活動し地域に奉仕し、そして地域をリードするのです。私はこのコラム執筆を通じ、地域的サイクルにおける動力源となり潤滑油となる覚悟でおります。

  1. 神仏虐待儀礼に晒された石仏
  2. 吉川区大乗寺址に残るラントウは黙して語る
  3. 生活文化くびき野ストーン
  4. そに鳥の青き御衣― 奴奈川姫─
  5. まれびとの活力くびき野をうるおす
  6. 森羅万象をつらぬく一木彫仏像
  7. 地震の大津波、関川を遡ったか?
  8. 越後高田の太子堂―大工職人の信仰心─
  9. 天然ガス噴出、世界一小さい泥火山
  10. 開府三百年記念写真「石垣の高田城」
  11. 裏日本ルネッサンス―直江津港─
  12. 春日山の歴史的および生活文化的景観
  13. 黒と白のせめぎあい―熊野修験と白山修験─
  14. 勝山城井戸跡にみる水資源の今日的意義
  15. 悪神敬して避ける―神さんかえってくんない─
  16. 風の三郎を退治する
  17. 「おが町」から「おおが町」へ―職人町今昔─
  18. 日本海を越えてきたシルクロード型獅子像
  19. 上越地方の子守唄
  20. うまやとひるこ―清里区・牧区─
  21. 野口善吉と頸城自由民権志士
  22. 川上善兵衛の放射状道路建設
  23. 高麗八萬大蔵経とくびき野
  24. 頸城野郷土資料室関連の生活文化(一)
  25. 頸城野郷土資料室関連の生活文化(二)
  26. 東京の小川未明と大杉栄
  27. 最古の木彫仏像は「裏日本」から
  28. 勧進と瞽女と親鸞と
  29. 自然との共生は生活文化の問題
  30. 西横山のサイノカミ石祠―オオマラの陰でひっそりと─
  31. 相馬御風の農本的アナキズム
  32. 琴平神社の文字左右あべこべ社名塔
  33. 岡倉天心と三か所の天心六角堂
  34. 神輿の天辺は宝珠か鳳凰か
  35. 文明開化の写真師―鹿野浪衛・末四郎兄弟─
  36. 北陸新幹線と「駅の駅」生活文化
  37. 自噴する天然ガスで生活する
  38. 満鉄中央試験所と丸澤常哉―日中友好の架け橋─
  39. 大隈重信の高田来訪―明治三四年―
  40. 多重塔心柱の伝統的制振技術
  41. 軍都高田の凱旋行進─第十三師団招致の意味─
  42. くびき野に埋もれていた海獣葡萄鏡
  43. 渡来仏定義の基準―関山神社銅造菩薩立像─
  44. 関山神社の左右におわす脇侍的二神体
  45. ほほゑみて うつつごころ―會津八一─
  46. 郷土誌を企図する上越郷土研究会
  47. くびき野を行き来する古代交通路
  48. 三途の川の子と鬼とお地蔵さん
  49. 「郷土」概念を提起する伊東多三郎
  50. 山田の中の一本足の案山子♪
  51. 岡倉天心の中の上越赤倉
  52. 西横山のオオマラ―郷土民俗の普遍性─
  53. 仏教美術史家平野団三の業績
  54. 猫又退治―妖怪伝説の里・上越市中ノ俣─
  55. 歴史研究の動機付け―渡邊慶一の実証主義─
  56. 三和区北代の石仏と街道祭り
  57. 小学校歌に燦然と輝く妙高山
  58. 学校開設の機運―羽峯・朴斎・八一─
  59. 愛の風あるいは東の風
  60. 道路元標と追分地蔵―元祖ナビゲーター─
  61. 夏目漱石の主治医・森成麟造
  62. 宗教家武田範之と黄葉学院
  63. 神輿の天辺は宝珠か鳳凰か─なっとく篇─
  64. 野尻湖のゾウ化石と先史遺跡群
  65. くびき野の民俗行事・伝統建築美に注目
  66. 近世頸城農村の近代化を見通す
第6章 大鋸町ますや参上
  • 人の「地産地消」をめざして ─頸城野郷土資料室─
  • 「あ、上越に来たな。」 ─くびき野ストーンの温かみ─
  • 客人と文物交流のハブ拠点 ─東アジアの中の頸城野─

本章は、二〇一〇年から一年間、エフエム上越で毎週放送されたラジオ番組「大鋸町ますや参上」の対談(最初三回)を文章化したものです。

第7章 小川未明の愛郷心─戦前・戦中・戦後の作家遍歴を踏まえて 

はじめに
一、大杉栄との邂逅
(一)若き未明の漢詩傾倒  (二)東京の小川未明と大杉栄
二、 新日本童話の時代
(一)時代思潮のうねり  (二)政治的葛藤と文化的葛藤の差異
三、 愛郷心燃ゆる日々
(一)未明における「憂国」の意味  (二)術語「愛郷心( patriophil)」の提唱
おわりに


石塚正英(いしづかまさひで)1949年、新潟県上越市(旧高田市)に生まれる。立正大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程満期退学、同研究科哲学専攻論文博士(文学)。1982年~、立正大学、専修大学、明治大学、中央大学、東京電機大学(専任)歴任。2008年~、NPO法人頸城野郷土資料室(新潟県知事認証)理事長。主要著書 石塚正英著作選『社会思想史の窓』全6巻、社会評論社、2014~15年。『大工職人の雁木通り史』NPO法人頸城野郷土資料室、2016年。


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NPO法人頸城野郷土資料室 設立趣旨書

二〇〇五年一月、一四の市町村(上越市、安塚町、浦川原村、大島村、牧村、柿崎町、大潟町、頸城村、吉川町、中郷村、板倉町、清里村、三和村、名立町)が合併してから三年近く経過した。このような大合併の場合、政治的・経済的には利点が見られても、文化的には合理化のあおりをうけて地域切捨てが深刻化する場合があり得るのである。

これまで幾世紀にわたって、単位で形成されてきた頸城各地の郷土文化を、文字通りの意味での上越後地方における郷土文化へと連合する運動、すなわち「頸城野文化運動(Kubikino Culture - Movement 略称KCM)」を開始することが肝要と思われる。この運動は個性あふれる地域文化の連合・再編成を目指すのであって、中央的な文化への統合ではあり得ないし、いわんや単一文化への融合(地域文化の切捨て)ではあり得ない。具体的な活動としては、民俗文化や歴史的建造物を文化資料として保護し、それらの基礎資料・研究資料を収集・整理し、後世に引き継いでいくことに努めたい。

そこで私たちは、「特定非営利活動法人頸城野郷土資料室」を設立し、広く市民に対して、後継者を失いつつある民俗文化や遺失・損壊の著しい郷土の文化資料を保護するために資料室を設置し、教育イベント、調査研究及び広報事業等を行い、郷土文化の保存と再編成に寄与していく所存である。

こうした活動を実施する上で、法人化は急務の課題だが、この会は営利を目的としていないので、いわゆる会社法人は似つかわしくない。また、市民や行政との協働を進めるため、ガバナンスの強化や市民への説明責任を重視し、開かれた団体として情報公開を徹底する方針であり、そのような公益的な観点からも、数ある法人格の中でも最も相応しいのは、特定非営利活動法人であると考える。

投稿者: 社会評論社 サイト

社会評論社 SHAKAIHYORONSHA CO.,LTD.